苦と至福は紙一重。
そして、表裏一体である。
そういう体感があった。
苦行が苦のまま終わるのか至福になるのかには、ある一線がある。
その一線を突破するか否かで世界が変わる。
やるかやらなか、越えるか越えないかは自分次第。
人生にも同じことが言えるだろう。
苦と至福は紙一重。
そして、表裏一体である。
そういう体感があった。
苦行が苦のまま終わるのか至福になるのかには、ある一線がある。
その一線を突破するか否かで世界が変わる。
やるかやらなか、越えるか越えないかは自分次第。
人生にも同じことが言えるだろう。
コロナが出たことによって、はっきりと浮き彫りになったものがあります。
それは、正義や善意の先にあるものは地獄だということです。
コロナ禍での行動に対して、例えばワクチンを打たないとかマスクをしないという行動に対して、正義を振りかざして攻撃するわけです。
逆もまた真なりで、ワクチンを打った人、マスクをしている人に対して正義を振りかざすわけです。
例えばワクチンに関して言うと、ありのまま、普通、当たり前に考えれば、ワクチンは義務ではないので、打つ打たないは自由ですよね。
それなのに情報に煽られた正義は、それを見えなくして、考えられなくなって、ただただ感情的になり、家族や身内でもめているわけです。
みんな自分が正しいと思って生きているわけです。
人と人は違うのが当然ですから、自分が正しいのであれば、人は正しくないことになります。
相手を尊重することを忘れた正義は、ただ人を傷つけるだけです。
地獄ですね。
このテーマについては何回か書いていますが、至る場面でやっぱり勇気は必要なんだなと感じています。
つい最近も勇気が必要な場面がありました。
ものおじしてしまいそうなところで、一歩踏み出す気力があるのかないのか。
どの分野でもそうだと思いますが、この勇気が本当に大きな違いを生み出します。
お風呂に入ると、必ずお湯に浸かります。
お湯に浸かることで身体が温まるというのもありますし、何より水の力を全身に得ることができます。
水の力を全身に得ることによって、身体の疲れがとれます。
身体の疲れがとれれば、精神の疲れもとれます。
湯船に身を預ける感覚も心地良いですし、やっぱりゆったりとお湯に浸かるのは最高です。
知識は必要ですが、扱い方によって役に立ったり邪魔になったりします。
知識がないと自分の身に起きていることが理解できません。
知識があるがゆえに、不安になってしまうなら、知識が邪魔なだけ。
知識だけ集めても行動がないなら、頭でっかちになるので要注意。
やっぱり中庸が大事ですね。
私がこの世を去るときの最後にチャレンジしようと決めていることです。
なかなか難しいんですよ。
意識が身体から抜けるとき力が抜けて安らかな表情になるのですが、抜ける瞬間まで顔の筋肉を使って笑顔を作るわけですから難しい。
一番の懸念は、難しいことにチャレンジしていることが表情に出ながら抜けてしまうことです。
難しい表情をみて、「あー、網野さん苦しみながら亡くなったんだ」と誤解されるのが最悪です。
死に顔が笑顔なんて神秘的じゃないですか。
私はそういう人を見たことがありません。
なので、それが達成できるように、生きているうちから笑顔でいます。
私にとって、霊とコミュニケーションはとても神秘的なものです。
目に見える世界とは、また別の交流になるので、どれだけ長く交流していても不思議な感じがします。
自分がこの神秘的な体験を日々しているのも、また不思議なものです。
考えても答えはないので、身を任せていますが、どれだけ経ってもやっぱり不思議。
スピリチュアルの道に入る前から、スピリチュアルなことは一生懸命やっていましたが、一生懸命やったからといって実るものでもないので、振り返ればまさか自分がという思いです。
でも、やっぱり神秘的な体験は興味深いしワクワクします。
本当に興味が尽きません。
まだまだ深めていきますよ。
積み重ねてきたものを失いそうになると不安や恐怖が湧いてくる。
その不安や恐怖は守りたい、失いたくないという執着から起こってしまう。
本来、執着する必要はまったくない。
創り上げたものを、守る必要もない。
積み重ねてきたものが無くなるという体験は、実は新たな築きの体験への導き。
それを繰り返すことが、人間の本質になる。
今を一生懸命生きる。
これ以上に大切なことがあるでしょうか。
これが最善の生き方です。
日常の煩わしさに捉われたり、余計なことを考えている間に機会や縁はどんどん失われていきます。
過去に私もずいぶんそれで残念なことをしました。
そういうことに参加せず、自分の良心に耳を傾け、それをただ受け入れ、それに合わせて生きていくことで、今を生きることができる。
そのありがたさを感じています。