行をやっていて、湧いてきた感覚です。
人間は、本来至福の存在だと感じました。
至福を実感したり、至福を実現する。
光の中にいるかけがえのない存在です。
行をやっていて、湧いてきた感覚です。
人間は、本来至福の存在だと感じました。
至福を実感したり、至福を実現する。
光の中にいるかけがえのない存在です。
好き嫌いは自分の好み、エゴになりますが、それを知ったうえでのことですが、私は嫌いな人と関わりを続けていくことはありません。
嫌いな人からも学ぶことはできます。
でも、一度で十分です。
続けて関わる必要はないし、意味もありません。
何より嫌いな人と関わっているときの自分が、とても不快です。
不快なエネルギーは人を遠ざけてしまいます。
瞑想やエネルギーワークを行うときは、部屋を薄暗くし、アルターに向かい、パロサントを身近に置き、お香かセージを焚いています。
香りや煙の雰囲気も大好きで、心地良い感じになります。
心がゆったりして、いろいろな存在とコミュニケーションをとれる環境作りをしています。
自然への畏敬の念が心に余裕やゆとりを生むように感じます。
心に余裕があるから、自然への畏敬の念が湧くことがあると思いますが、逆もまた真なりです。
何事にも感謝することの心の働き。
とてつもなく大きいものに感じます。
先日、過去の話をする機会がありまして、たくさん話しました。
話しているうちに忘れていたことも思い出し、ずいぶん懐かしい感じがしたものです。
過去には苦い体験もありましたが、その話をしても嫌な感じが湧いてくることもなく、笑って話せたので、なんとなく乗り越えたんだなと感じています。
確かに過去に自分が体験したことではありますが、もう遠く遠く、夢のように感じます。
すべては思い出になります。
二つ前の記事で、どんなに幸せそうに見えても、みんな問題を抱えています、ということを書きました。
励みになりましたか!?笑
事実、何もない人はいないので、みんな問題を抱えています。
ただ、その問題について、悩むかどうかはまた別の話になります。
抱えている問題について悩んでいる人もいれば、問題を抱えていても悩んでいない人もいます。
これは問題の程度の問題ではなく、生き方や心の在り方の表れです。
外側にある〝問題〟と捉えているそれが問題なのではないということです。
すべて自分の中にある何かが決めているということ。
自分の中にあるものは自分のもの。
自分のものであるならば、必ず何とかできます。
私でよければいくらでも力になりますので、一緒に越えていきましょう。
自分が何をしたいのか、じっくりと突き詰めてみると、結局楽に生きることをみんなで共有したいだけなんですよね。
スピリチュアルの始まりがそこ。
苦から始まり、楽になり、私が楽に生きられるようになった方法を伝えて、一人でも多くの方が楽に生きられるようになればいいよねって。
やっぱりシンプル。
突き進んでいくと、小難しかったり、なにやら偉大なものにチャレンジしているような錯覚に陥りますが、楽に生きることはそんな大層なものではありません。
私のようなものでも楽になれたのだから、みんな楽になれます。
雑草はかき分けてあるので、あとはその道を歩くだけです。
私が到達した時間よりも、早く到達できるでしょう。
みんなで楽になって、みんなでより多くの人が楽になるお手伝いができたら素晴らしいですね。
どんなに幸せそうに見えても、みんな問題を抱えています。
何事も無さそうでも、何もない人などいません。
みんな問題を抱えて生きています。
ミュージシャンの浜田省吾さんも言ってます。
「もちろん俺だって抱えているからね。励みになった?笑」
あの浜田省吾さんでさえ、問題を抱えているそうです。
ちなみに、スピリチュアルカウンセラーの網野隆之さんも言っています。
「もちろん私だって抱えていますからね。励みになりました?笑」
ある時期、深く考えました。
大勢と同じ人生を歩むか、それとも理想の自分に向かうのか。
心の底から、理想の自分に向かって歩こうという思いが湧いてきました。
学習を止めずに、それが今も続いています。
スピリチュアルを深めるため、5月24日25日26日と修行で伊豆にこもります。
その期間は連絡が取れませんので、よろしくお願い致します。
海と山と水と空気と天の力に寄り添い、行を積みます。