自分を高めるために、常日頃から修行を積むことを大事にしている。
人によって価値観は違うから、それを押し付けることはしないが、自分ではそうしている。
自分では、修行が心地良い。
苦しい行もあるが、それでもやりたいと思うのだから素直にただやる。
自分を磨くことをよしとしている限り、それは変わらないだろう。
自分を高めるために、常日頃から修行を積むことを大事にしている。
人によって価値観は違うから、それを押し付けることはしないが、自分ではそうしている。
自分では、修行が心地良い。
苦しい行もあるが、それでもやりたいと思うのだから素直にただやる。
自分を磨くことをよしとしている限り、それは変わらないだろう。
基本的に専門的にやっている人に任せるようにしている。
例えば、食べ物で言えば魚は魚屋、肉は肉屋、野菜は八百屋。
そういうものは、できるだけひとまとめになっているスーパーでは買わないようにしている。
お茶やコーヒーを買ったり飲むなら、専門店。
しっかり信念をもってやっているような店主がいるお店にする。
高校生がバイトしているようなお店では、ほとんど買わない。
そうなると、必然的に大型スーパーより個人がやっているお店に行くようになる。
個人を応援する意味でもいいのかもしれない。
パンはパン屋、ケーキはケーキ屋、和菓子は和菓子屋。
専門的にやっている人に任せる。
スピリチュアルに深く関わるようになってから、この偶然と必然について、ずいぶんと考えさせられた。
偶然は無く、すべてが必然だと捉えると、必然的に起きたことへの理由に頭が向く。
それをずっと続けてきた結果、きりがないことに気づいた。
納得できたことと納得できないことが無限に繰り返され、死ぬまで続けることになると気づいたのだ。
愛と憎悪に同じ側面があるように、偶然と必然にも同じ側面がある。
結局、執着になり振り回されていることになる。
そういうものから自由になる。
起きたことはただ起きたこと。
それをそのまま、ありのまま受ける。
とても自由で楽だ。
理由など、大したことではない。
何においても、最善を尽くすよう心がけている。
それ以外に、一体何ができるのか。
ありのままを生きていれば、必然的に最善にならざるを得ない。。
ありのままとは、思いのままでも我がままでもなく、ただ現実の今をそのまま受け入れること。
それが最善を尽くすということになる。
直感や霊感の鋭い人が来ることがありますが、ほとんどの人が気づいてもいなければ磨いていません。
せっかくのカンを使い切れていないのは、非常に残念なことです。
カンを磨くには、しっかりした人から指導を受けるのが、一番安全で確実です。
師は見つけようと思って見つかるものではありませんが、必要な時に出会います。
多くの人がそういう機会すら見逃してしまうのも、非常に残念です。
カンは、ただやみくもに使っても磨かれません。
磨かれるどころか思い込みの世界にハマり、抜け出せなくなります。
それこそ、低級霊の餌食です。
そうなってしまったら、できることは何もありません。
そうなる前に、しっかりした人に、しっかりと教えを乞うのが賢明です。
必要な人には、必要な時に必ず現れます。
その機会を見逃さず、しっかりと学び、コツコツとカンを磨いてください。
埒が明く(悟る)まで、何度でも話を聞きに来てください。
悩みがあっても無くても、どちらでも構いません。
埒が明くまで、私と話をしましょう。
妄想に埋もれながら人生を終えるのは、あまりに切ない。
埒が明かない人生を手放すために、埒が明くまで何度でもお越しください。
想像や思考は過去の産物だが、それが自分を檻に閉じ込めてしまう。
限界を作り出してしまうと言ってもいい。
考えて生きるように教育されているから、仕方がない部分もある。
しかし、何かが違う、何か物足りないと感じているはず。
それをどうするかは自分の責任だ。
想像や思考の世界に生きると、今を生きているはずが過去を生きることになり、迷いが生じる。
多くの人がそれに陥っているが、ほとんどの人が気づいていない。
気づいた人だけが本当の自分を生きることになる。
そこには迷いがなく、一切が整っている。
思い込んでしまうと、真実が見えなくなる。
想像や思考が真実と思い込み、目の前にあるものが見えなくなってしまう。
思い込んでいる人に対して、かける言葉は無い。
真実を伝えたところで届かないし、届けようとすると戦いになってしまう。
相談に乗る方の立場としては、本当に難しいところ。
真実を伝えればぶつかるし、伝えなければ自分が相談に乗る意味が無い。
結局、真実を伝えるが、相手は納得しないので、当然のように縁が切れる。
まあ、元々その程度の縁だったのだろうから仕方ないのかもしれない。
つくづく、思い込みは厄介だなと身に染みる。